村上春樹

辺境・近境 /村上春樹

辺境・近境(1998)

村上春樹氏が90年代に旅した、国内、海外の旅紀行。これも読みやすくおもしろいです。

作家や富豪のセカンドハウスが立ち並ぶNY郊外のイーストハンプトン。虫、虫、虫の瀬戸内の無人島体験は笑えるし、香川県でのディープな讃岐うどん体験は、こりゃ食べに行くぞ!と思わずにはいられなくなった。

メキシコ、なるほど観光客が殆どいない地域が本来のメキシコ姿なんだろうな。武装警官がバスにいきなり乗車してきたり、かなり過激な旅だったそうです。カバン売りの美少女、なんか心に残るエピソードだ。そこで、自分が体験しているかのよう。しかし、読んでいると原風景とでもゆーか、いろいろと想像していると、あーなるほど、行ってみたいな~しかし、この間もテロがあったし、実際にはなしかな。

アメリカ大陸を車で横断というのは、私もひそかにやってみたいと思っているのだが、この内容を読む限りでは、もういいか、、、という気にさせられた(笑)というか、うちの父ちゃんいわく、なんでこのルートで横断なんだ?だと。春樹様も、玄人的な道順なのでと言っているが、そういうことです。将来に向けて、ルートを思索中。

さて、ハイライトは何といってもこのモンゴル平原の戦場跡についてだろう。ねじまき鳥クロニクルで、書かれていた、ノモンハンへ実際に行った時の旅ジャーナルである。この宿で起こった事件(体験)は小説さながら、いやしかし、あり得そうなエピソードだ。この場所では。

最後に出身地の神戸について。三宮から神戸まで歩きながらここでは旅日記に加え、オウム事件や阪神大震災についてなどいろいろな心情を記している。非常に印象深い。

あとがきは、インタビューをまとめたもののようだが、作者の旅行記の具体的な書き方や考え方など、興味深いことが書かれている。

「どこそこに行きました。こんなものがありました。こんなことをしました」という面白さ珍奇さを並列的にずらずらと並べただけでは、なかなか人は読んではくれません。<それが日常から離れながらも、しかし同時にどれくらい日常に隣接しているか>ということを複合的に明らかにしていかなくてはいけないだろうと、僕は思うんです。そしてまた本当の新鮮な感動と言うのはそこから生まれてくるものだろうと。

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やがて哀しき外国語/村上春樹

『やがて哀しき外国語』(1994)

その昔、村上春樹公式HPというのがあって、ネット上で春樹様の文章を読む事が出来た。内容は詳しく覚えていないが、とにかくおもしろかったのだけは記憶にある。HPは何年も前に閉鎖されていますが。

そんなわけで、小説に負けず劣らず、春樹様のエッセイはいい。

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『やがて哀しき外国語』(1994)は春樹様がアメリカ・プリンストンに滞在していた頃のエッセイで、これは特に、渡米予定のある方は読んでいて損はない。(と思う)具体的な情報というよりも、アメリカってこうなんだというのが、ちょっとわかるかも。文庫本の方には、親切に後日附記というのがおまけでついているので、更に楽しめる。

私もアメリカへはかれこれ12回ほど行っているものの、住んだ事はないので、アメリカという国はこーなんだ!などと語る資格はないのだが、配偶者がアメリカンなので、それなりの数のアメリカンに接してきて(特に十数年前の結婚当初はしんどかった)、共感というか、笑える部分が多かった。

プリンストン大(つまりは東部の超エリート大周辺)では、ビールの銘柄、読む新聞まで、決まり事がある。

だから、この国(東部の有名大)では、バドワイザーが好きで、レーガンファン、スティーブンキングを全部読んでいて、客が来たらケニーロジャースをかけるというような先生がいたら、あまり相手にされないのではないだろうか。

この分析には笑わされる。(まあ、労働者が飲むビールを飲んで、大衆の本や音楽を聞いちゃいかんってことだ)が、実際にそんな世界なんだろう。

そして、ここではみんなお金の話をしない。

春樹氏は、日本では小さい車に乗っていれば、「ベストセラー作家でお金があるんだから、もっと大きいのに乗ったらどうですか」的な事をよく言われるそうだ。春樹さまに限らず、こういう話は日本ではありがちだ。「(あなた)お金結構貯めてるんじゃないの~?」なんてのは普通の会話だし。

しかし、ここでは「お金?ああ、そういえば世の中にはお金みたいなものありますね」の世界らしい。春樹さまにとっては、そういうスノッブな世界(お金の事をとやかく言われない)にほっとしたらしいですが。

日本にもかつては知的階級性があったが、戦後マッカサーの階級制度の解体よって消滅してしまった。しかし、社会の大衆化、平準化ことが歴史の流れという観点で考えると、日本の方が良くも悪くも数段進化しているんじゃないか。そういう意味でアメリカの大学のスノビズムというもの、階級社会の最後の悪あがきなのかもしれない。と言った内容でまとめていて、特に日本がいいとかアメリカがいいとかいうものではないとことろがいい。

日米のマラソン大会の違い、またJAZZについてや元気な女の人の話ロールキャベツを遠く離れてでは、小説家になるまでの人生について、またプリンストンの学生とのやりとりなどが興味深い。

マラソン大会では、アメリカはそう大きな大会でなければ、当日飛び入り参加もオーケー、しかし、日本は締め切りというものがある。それは名簿作りのため。たかが10kmそこらのマラソンに何故、名簿が必要なのか?またそこには所属団体も書かなければならず、例えば、「東京電力走友会」とか「東京都庁」とか、「○○走ろう会」みたいな団体名が書かれているらしい。少数派の個人参加は「所属なし」と記入されていて、なんとも複雑な気分にさせられる。正直言って、そんなことをよく晴れた気持ちの良い日曜日の朝からいちいち実感させてほしくないと思う。

元気な女の人というのは、アメリカ人女性についてであるが、春樹さまが奥さんについて何をしているのか、と尋ねられるとき「何もしていません。ハウスワイフです」という答えは許されないという雰囲気、「なんか他にやっているんでしょ」と言わんばかりの態度を感じるというの、わかる気がする。

女性の自立、フェミニズムには敏感な国だもんね。欧米というのはだいたいそういうもんでしょうが。

私も確かにアメリカ(人)で、What do you do for a living?
という質問をされた事が何度もある。

意味としては、仕事は何なの?と言う事だが、for a living、つまり生活の為に何をしているのか?つまり自立してるのか?というニュアンスを感じる言い回しである。(個人的に)

ちなみに私の場合、幸い?専業主婦ではないので、accounting(会計、経理)をやっている、と答えるようにしている。(事実そうだし)こう答えると、その後にいろいろ聞かれることが少ない。より専門的で具体的な方が一回でシャットアウト出来るってことかな(笑)

これが、例えばoffice work(一般事務)などと答えると、「具体的にどんな事?」などとつっこまれる。「コピー取ったり、お茶出したり・・・」などと言おうものなら、相手のテンションが一気に下がることだろう。また同じ経理の仕事でもbookkeeping(帳簿付け)だとちょっとしょぼい感じがするのか、会話がそこで終わったりする。

ヒエラルキーの風景では、プリンストン大に派遣されている日本人の官庁や大企業のエリート達についての事が書かれている。会って挨拶をした後から「実は私の共通一次の成績は何点でしてね」などと会話を始めるエバッた変な輩がいて、困惑したとか、ちょっと日本では考えられない方たちがいたらしい。

さて、この本はまた、あとがきが素晴らしい。日本語との葛藤や、タイトルのやがて哀しき外国語の意味など興味深いものがある。「悲しき」じゃなく「哀しき」の意味がわかる。

気楽にさーっと読めてしまうエッセイ集です。おもしろかった。

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国境の南、太陽の西/村上春樹

国境の南、太陽の西 1992年

今の時代、一人っ子というのは珍しくもなくなったが、一昔前ではかなりの少数派だった。

ちなみに、私が小学生の時、具体的には昭和40年代後半から50年代というのは、クラスに一人かせいぜい二人くらいだったように思う。そしてそのイメージと言えば、何でも欲しいものが買ってもらえて、甘やかされているとか、わがままとか、まあ決していいものではなかった。

もっとも、子どもの私にとっては、羨ましいな~私も一人っ子に生まれたかったな~というようなものだったんだけど。だって小学校4年くらいの時、一人っ子の女の子の家に遊びに行ってみると、自分が欲しかったようないろんな物heart04がたくさんあったんだもんね。

うちの娘も一人っ子なので、一人じゃかわいそうだとか、絶対に兄弟は必要だとか言われた事がある。自分よりもっと上の世代の人達である。

人にはそれぞれのライフスタイルや事情があるんだから、大きなお世話だと言いたいところだが、まあそういう風に思う人も未だに少なからずいるわけだ。

最近、新聞の村田喜代子さんのエッセイを読んでいたら、宇宙飛行士には一人っ子が多い(と言うのをどこかで読んだ事がある)とあった。あの狭い空間の中で、一人でいる事に慣れている一人っ子は強い、というようなことだった。兄弟がいる(多い)家庭に育つと孤独に弱いらしい。なるほど。確かに私も一人暮らしは経験がないし、おそらく出来ない気がする。またそのエッセイは、村田さんの二人の娘同士が音信不通で、せっかく将来何かにつけて助けになるだろうと、二人生んだのに、意味がなかった、みたいな事を書いていた。

これを読んで思ったんだが、孤独に強いというのは、実は生きる上においては、相当な強みになるんじゃないか?なぜなら、孤独というのは、好むと好まざるにかかわらず(まあ、春樹チックね)誰にでも訪れるんだものね。そして、兄弟仲がいいのは幸いだが、逆に不仲の場合を考えると、かえって兄弟なんていないほうがいい場合もあるじゃないのか。一人も悪くないね~。ひとりっこバンザイ!なんてね。

さて、ようやく本についての事を書いてみる。「国境の南、太陽の西」は、そんな一人っ子がマイノリティな時代、昭和の小学校時代に出会った「一人っ子同士」の恋愛小説だ。

(村上春樹も一人っ子で、私より上の世代だから、一人っ子は更に超レアだった事だろう。だからそれがあってこそ、いろんな小説が生まれたんだろうと思うし、この小説は実体験に基づく部分があるように思えてならない)

小説はおもしろく、あっと言う間に読んでしまった。

ハジメは、小学校の時に、同じ一人っ子の島本さんに出会う。そして惹かれあう。しかし、引越しと思春期の複雑な心理が、二人を引き離す格好になるわけだが、ハジメは、その後、何人かの女の子と付き合いながらも、ずっと島本さんの影を追い求める。ガールフレンドだった一人、大原イズミに関しては、その後の彼女の人生を大きく狂わせる事にまでなってしまう。

その後、ハジメは、心優しい有紀子と結婚し、逆玉の輿的な力もあって、上品なジャズバーの経営を始め、軌道に乗り、二軒目まで開店させる。子どもも二人生まれ、全てはうまくいっているように見えていた。しかしそこで、島本さんに再会するわけだ。おまけに、島本さんは今でも美しく、その私生活はミステリアスなものだった。島本さんは、気まぐれに店を訪れ、ハジメは、それをいつも心待ちにしている。このあたりの描写というのは、ストイックな感じがいい。彼女のプライベートを一切聞かず、ただ、待つだけだ。そして、ついに二人は離れていた25年間の喪失を埋め合わせようとする。

絶対にこの人でなければならない、というほどの恋愛というのはあるんだろうか。もちろん、だからこそ、みんな付き合ったり、結婚したりするわけだが、もっと深い部分で、つまり単に気が合うとか、一緒にいると落ち着くとか、それ以上のものだ。極論で言えば、この人と一緒になれないのなら、死んでもいいとか、そういうレベルのことだ。人は人生で何人くらいそういう人と巡り合うんだろうか。おそらく私は一人出会うか、あるいは出会わないか、ということではないかと思う。1or0。もちろん、誰もいなかったという人もいるだろうし、5人という人もいるだろうけど。また、その相手は、配偶者である必要はないわけだし、そうなるとも限らない。そうならないからこそ、もっとそう思えるのかもしれない。

ハジメは、小学生の時に好意を抱いていた女の子をいつまでも思い、つきあう女の子にも、何か違うな~いい子なんだけど、深みがないというか、そんな事を感じてしまう。つまり「いろいろと考えてしまう子」なんだ。

その空虚感とか喪失感というのは、誰でも感じたことがあるものであり、それをジャンプカットするヨーロッパ映画でも見るかのように、第三者的に淡々と語っているところに、この作家の魅力があるのだと思う。絶望的にはならないのである。

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ねじまき鳥クロニクル/村上春樹

読書記録

ねじまき鳥クロニクル/村上春樹 1994年 発売

あの爽やかなデビュー作「風の歌を聴け」から十数年、全3巻、千ページ以上にわたる長編作品。

果たして人間と言うのは、自分以外の人間を、どこまで理解できてるんだろうか。

ここでは、夫と妻という最も近い間柄のひとつであるはずの二人の心理がひとつのテーマじゃないかな。

それを軸に、戦争の残酷なエピソードから、不思議の世界まで織り交ぜた傑作。

突然の妻の家出。

村上作品の主人公の特性とでも言うか、ここでも「僕」どこか冷静で客観的だ。

そんな「僕」トオルだが、妻のクミコを失くした後に、いろんな事に気がつく。

クミコが洋服を大切にしていた事。襟の立て方や袖の曲げ方とか。

つまり、自分がいかにクミコを愛していたか。

このあたりの細やかな表現は、さすがだなと感心する。

クミコというのは、いわゆる男性が理想とするような女性、具体的には身長158cm

体重45kg、華奢で、センスのいい清楚な洋服をいつも着ている感じの女性。

しかし、同時にトオルにさえも語られる事がなかった、闇の部分があった。

それは兄である、エリートのワタヤノボルの持つ「悪」と関係している。

作家と言うのは、歴史背景を書く場合、膨大な資料を読み込み、それらといかにコミットするかが重要なんだと思う。

ノモンハンという、そう多く語られる事のなかった歴史の何処かに作者は強く惹かれ、あの第1部のクライマックス「皮剥ぎボリス」のシーンなどは、事実かどうかは別として、どうしても書かねばならぬ部分だったのであろう。(昼食を食べながら読んでいた私は、食欲をなくしてしまった。)

それは、あるものとの対比であるかもしれないし、そうではないのかも。

加納マルタと加納クレタという二人の存在は、ファンタシーであり、加納クレタはクミコを投影している。ちょうどこの小説が発売になった数年後に、日本ではスピリチュアルブームみたいなのがおこるわけだが、それを見越していたかのように、この小説にはその他、赤坂ナツメグや、赤坂シナモンなど、スーパーナチュラルな力を持った人物が何人も登場する。

唯一まともな登場人物と言えば、高校生の笠原メイだろう。

彼女の存在は大きかった。

いくつかのセリフが気に入った。

第1部 P211

「私はまだ16だし、世の中のことをあまりよくは知らないけれど、でもこれだけは確信をもって断言できるわよ。もし私がペシミスティックだとしたら、ペシミスティックじゃない世の中の大人はみんな馬鹿よ」

第3部 P222

「あの人たちは世界というものは高級建売住宅の間取りみたいにシュビ一貫して説明がつくと信じています。だからシュビ一貫したやり方でやっていけば、すべては最後にはうまくいくと思っているのです。そして私がそうしないことに混乱したり、悲しんだり、腹を立てたりするのです。」

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世界の終りとハードボイルドワンダーランド

世界の終りとハードボイルドワンダーランド/村上春樹

この小説が書かれたのは、何と今から25年前の1985年。

当時、友人に借りた記憶があるが、結局、最後まで読み終わらなかった。

冒頭、あのエレベーターのシーンからの入りがどうも悪くて。

何か違うな~と思った記憶が。

加えて「風の歌を聴け」で、すっかり村上春樹のイメージを作り上げていた私には

ちょっと受け入れづらかったのだろう。

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さてさて、あれから25年もたってしまったが、40代になった今、

再読してみることに。

すると、あまりにおもしろいので、長編ながら一気に読み終えた。

この違いは何なんだろね。

以下ネタばれ含むので、注意!!

まず、

「世界の終わり」と「ハードボイルドワンダーランド」という二つの話が、

パラレルに進んでいく作品なのだが、これは同時進行ではないようだ。

そして、計算士という職業の「僕」と、夢読みをやっている「私」

同一人物ではないか、、、と気がつく。

双方の物語のキーワードが、それらをリンクしていくわけである。

一角獣、世界の終わり、ダニーボーイなどがそれである。

そして、「ハードボイルド…」は現実の世界、しかし「世界の終わり」

は言わば思念の世界で、「ハードボイルド・・・」の世界の最後、

つまり僕の意識がなくなった時、世界の終わりへと物語が始まる。。。。。

のではないか、、、と言うとややこしいが、

私はそんなふうに解釈した。

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また人間の持つ「感情」「心」への問いかけも伺える。

心のない街、壁の街では、煩わしさもなく一生穏やかに過ごすことができるだろう。

しかしそれは倫理的に間違いだ。

人間は、心を持つのが普通であり、感情を喪失して生きていくべきではない。

ここから脱出しなければいけない。

影はそう主張する。

しかしながら、「私」は図書館の彼女の「心」を取り戻す事ができそうだという

希望と共に、大きな決断をしていた。

一方、僕は、自分の人生があと24時間で終わるとしたら、何をやるかを

考え、それを実行する。

自分の好きな服装で、会いたい女性に会う。ビールやワインを飲む。

音楽を聞く。

そして頭に浮かんだ、自分に関わってきた人々に祝福を送る。

それは、ロック好きの若いタクシーの運転手や、レンタカー会社の女の子まで

含まれるわけだ。このシーンはまるで映像のように、印象に残る。

そして、そこにさまざまな「気づき」がある。

太ったピンクの女の子は、「僕」を冷凍保存しておく、と言う。

ひょっとすると博士が、「僕」を直す事が出来るようになるかもしれないから。

と、世界の終わりでありながら、ここにも希望(Hope)があり、

この物語はそう悲壮でもない。そう暗くはない未来を想像したりするくらいだ。

哲学的な深みもある、考えさせられる話だった。

もう一度読んでみて、是非再考したいと思う。

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1Q84 BOOK3

連休中にやっと読み終えた。BOOK3

あ〜楽しみが一つ減ったな〜。
これから読む方、以下一応ネタばれ注意!

意外にも爽やかな結末。
何せ1,2がコミューンや新興宗教、暴力、性など、社会派小説の側面とファンタジー、ラヴストーリーまで、てんこ盛りの内容だっただけに、どう収束するのかと期待大で読み始めた。

牛河が、青豆と天吾と同等級クラスに格上げされたことで、さらにハードボイルドな展開となり、こちらは純粋に楽しめた。青豆が3では、護り態勢だっただけに、牛河の存在感が大きい。彼の強烈さが、時にコミカルでもあり、笑いさえ誘う。しかし牛河、そうなっちゃいましたか〜何か残念。まあしょうがないのか。しかし、無気味に出て来た、リトルピープルはどうなったんだ?
3で完結ならあの部分は必要ない気がする。となれば、4を期待。

また安田恭子のエピソードもちょっと欲しかった。小松にももっと登場して欲しかったところだ。

あとラヴストーリーの方では、青豆の思いに比べると、天吾の方がやや弱い印象を受ける。村上作品特有の淡白な男ではあるけど、(そこが魅力でもあるが)青豆でなければならない理由、その辺りの描写がもうちょっと欲しかったかな。

それにしても、ゲイのタマル。この物語で一番カッコいい男だな。

というわけで、やっぱり4を待ちたい。

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ティファニーで朝食を 村上春樹訳

初めて村上作品を読んだのは、二十数年前。当時よく読んでいた雑誌、宝島に書き下ろし小説が載っていたのであった。

それは「午後の最後の芝生」という短編小説だった。高校生には、いささか刺激が強い小説ではあったが、その魅力的な文体に、ぐいぐいと引き込まれたのをはっきりと覚えているflair

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村上春樹の作品については、一言では言い尽くせない思いがあるので、また追々書くとして、今回は読書記録として、翻訳作品、まずは、「ティファニーで朝食を」の感想から。

数十年ぶりの新訳らしいが、原作を読むのは初めて。

こんなにおもしろい小説だったとは!!

このカポーティは、相当繊細な作家だったのだろう。実に細やかな表現が多い。

ストーリーは、発表されて半世紀以上経っているのに、全く古さを感じさせないし(新訳ということもあるんだろうけど)むしろ新鮮に感じた。文体、物語の始まり方、ストーリー展開、ホリーという魅力的なキャラクター、そして作者自身をおそらく投影しているだろう「僕」がいい。変な言い方かもしれないが、そういう意味では完璧な小説だと感じた。

村上春樹は、カポーティは好きな作家のひとりだそうで、やはり比喩表現など影響を受けたんだろう。ほほ~春樹的~sign01と何度か感じた。

さてさて、この作品、何といっても映画の印象が強い。映画では、あのジパンシーのドレスを着たオードリー・ヘップバーンが非常に印象的。物語の語り手である「僕」は、当時のイケメン俳優ジョージ・ペパードが演じており、自由奔放で、天真爛漫なホリーとの恋愛ストーリーとなっている。

この映画がいいんだな~。多くの女性が、ジョージ・ペパードに溜息し、ホリーのような女性に憧れたことだろう。

しかし、原作を読んでみると、趣がかなり違っていることに気づく。物語の語り手「僕」は今で言えば、草食系男子coldsweats02非常に繊細で、密かにホリーを思っているものの、恋愛に発展するような状況にはならない。ひたすらホリーを見守っているだけの存在と言った感じ。

ジョージ・ペパードみたいなイケメンではなく、ちょっと頼りなさげな華奢な男優のイメージ。ホリーについても、ちょっと癖のある個性派女優がいいだろう。。。と言うのは簡単だけど、となると誰がいいんだろう。。。?などとキャスティングを考えながら原作を読むとまた楽しい。。。とまあ、これは村上春樹氏が解説に書いていたんですけどね~(今泉風)

つまり、映画の印象が強すぎて、原作を読む際に、オードリーと重なって、小説の楽しみである想像力を邪魔してしまうということだ。これ、永遠のテーマって気もしますな。まあ、そんな春樹様の意向で、カバーにも映画の画像は使っていない。

あ、で、最後の解説、この春樹節がまたいいですな~shine

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